宮田紘次さんという漫画家(10月28日 晴)
2015年10月22日、漫画家の宮田紘次さんが亡くなった。高血圧性の脳出血で、まだ34歳の、作家としてさらなる活躍が期待される時の出来事だった。 私と宮田さんとは、それほど親しい間柄であったわけではない。お互い電話番号もメアドも知らないし、プライベートでの付き合いも無かったが、飲み会大好きなフェローズ(現ハルタ)の合宿や飲み会に参加した際は、いつも漫画の話をずーっとしていた気がする。その頃の話を、自身の気持ちの整理も兼ねて、できるだけ思い出して書いてみた。あまりな急逝に戸惑っているであろう宮田さんの作品の読者の方々が、『宮田紘次』という漫画家の一面について、多少なりとも知る機会になればと思う。 宮田さんと最初に会ったのは2006年の暮れだった。9年前になる。11月に月刊コミックビームの新人を中心とした読み切り企画本「コミックビームFellows!」が出版され、その打ち上げでの事だった。これは後に「Fellows!」として独立創刊され、今の「ハルタ」に繋がることとなる。宮田さんのデビュー作の14ページ漫画「猫でタンデム」は、この「コミックビームFellows!」に掲載されたものだった。前年の2005年にデビューしたばかりの私も、同じ本に自身4本目の読み切りを載せていた。 その打ち上げだが、二次会をホテルの一室を借りておこなうという豪華なものであり(※1)、部屋には大量のスケッチブックとマジックが用意されていた。おまえら漫画家はどうせシャイで口下手で人付き合いが苦手なんだから、得意な絵でも描いてコミュニケーションをとりやがれという、編集部の粋な計らいである。誰ともなくそれを手に取り絵を描きはじめ、わいのわいの騒いでいたのだが、いつしかそれは 『第一回お前が一番かわいいと思う女の子を描いてみやがれ選手権』 へと変貌を遂げていた。森薫(※2)や入江亜季(※3)といった当時すでに高い評価を得ていた作家陣が、きゃあきゃあと騒ぎながら自分の好きな女の子を描き、他の新人作家にもほれ描け見せろと強要する、地獄絵図である。私も宮田さんも、その地獄の輪の中にいた。それが初対面だった。 次はお前の番だとばかりに、マジックとスケッチブックを渡された宮田さん、動じることもなく、すらすらと下書きもなしに女の子を描いていく。眉毛がふとく、おでこの出た、ショートカットで、唇の厚い女の子。最初に顔の...