笠井スイさんと、旅の仲間たち
2025年9月12日、漫画家の笠井スイさんが亡くなった。彼女とは雑誌「Fellows!」(のちの「ハルタ」)創刊時に同じ1号目から掲載された新人作家どうして、当時のFellows!は頻繁に作家を集めた合宿という名の漫画勉強・交流会を開いていたため、格別親しい間柄ではないものの面識はあった。私が「Fellows!」を去ってからは交流が途絶えていたのだが、近年コミティアの会場で再会し、あれやこれやの楽しい談笑をした矢先であった。本当に、本当に残念としか言いようがない。
前述の通り、笠井さんと私とは格別親しい間柄ではなく、また彼女については妻である沖乃さんがnoteに追悼文を書かれているので、まずはそちらに目を通していただきたい。ただ、あまり関わりのなかった外様の人間から見た話というのも、笠井さんを形作る想い出の一部であり、私を含めた彼女の死を悼む多くの人たちにとっては、もう少しだけ彼女について知ることができる機会になるかもしれない。ここに思い出せる限り、笠井さんについてのことを書き記しておく。
雑誌「Fellows!」は2008年10月14日に創刊された。月刊コミックビームから森薫・入江亜季(※1)ら複数のレギュラー作家を引き抜くとともに、新人作家を積極的に起用するスタイルで、私も笠井さんもそうした「新たに起用された新人作家」のひとりであった。私は初の連載作『蝋燭姫』を1号目から掲載し、笠井さんは同号に『花の森の魔女さん』という読み切りを掲載した。笠井さんのこの短編は読者に好評を博し、新人のデビュー読み切りながらアンケートで上位を獲得する。ちなみに1位は森薫『乙嫁語り』の第1話で、私の『蝋燭姫』が4位。はっきりとは覚えていないものの、笠井さんは確か2位か3位で、私より上だった。まだ20代でプライドがエベレストだった私は大層悔しい思いをして夜な夜な枕を涙で濡らしたわけだが、それゆえに笠井さんの名前・作品もすぐに覚え、注目していくこととなったのであった。
「Fellows!」とは「仲間たち」という意味で、イラストレーターの碧風羽(※2)さんの手がけた創刊号の表紙は、その雑誌名にふさわしい「焚き火を囲む旅の仲間たち」のイラストだった。ページをめくると入江亜季さんのカバーストーリーが出てきて、これまた武器を持った旅の冒険者たちがずらりと並んでいる。当時の私はこの二つを見て映画『ロード・オブ・ザ・リング』の第一章、「旅の仲間たち」を思い起こした。指輪をめぐる冒険に種族や年齢を超えた様々な仲間たちが集ってくる、ワクワクする映画だ。Fellows!もまた、森・入江を中心に若い気鋭の作家や野心を持った新人がギラギラと集まった雑誌だった。加えてそれを創刊した編集側には「従来にない雑誌を」「旧来の悪しき習慣を引き継がない雑誌を」(※3)という強い志があり、そうした理想の結果として生まれたもののひとつが、前述した作家たちを集めて行う「合宿」というイベントだった。
Fellows!の合宿は、たいてい泊まりで行われた。会場はエンターブレイン社屋の会議室のこともあれば、別に会場を借りることもあった。昼過ぎに集まり、森薫がアナログ作画のテクニックを指導したり、あるいは福島聡(※4)がベテランとしてネーム技術の講義をしたりした。ギャグ作家の層が弱いことから、外部から氷川へきる(※5)を招聘しギャグ漫画について講義をしてもらったこともあった。突然ネームのお題を出されて、時間内にそのネームを描き上げなければいけないこともあり、そういう時は地獄だった。そうして漫画の勉強をした後は、夜に飲み会があり、そこでさらに親睦を深めることとなる。私などは真面目なので昼から出席してきちんと講義を受けていたが、室井大資(※6)のように夜の飲み会からしか顔を出さない奴もいた。
勉強会で笠井さんと話をした記憶はほとんどないが、覚えていることが少しある。Fellows!での飲み会はそのあとしばしばカラオケに発展することがあり、ここは母体であったコミックビームの風習を受け継いでいた。カラオケが得意な作家はガンガン曲を入れて歌いまくるが、そうでない人はちょっと居心地が悪そうにしていた。ある合宿の時、笠井さんを含めた10人くらいで同じカラオケ部屋となったが、笠井さんは一曲も歌わずに、途中でその小さな身体でテーブルの下をくぐり抜けて、部屋を出ていってしまった。こういうの苦手なのかな? そういう人もいるよな〜程度に思っていたが、翌朝、広間に集まった時に驚いた。酒とカラオケのせいでフラフラで一ミリも体力が残っていない我々に対し、笠井さんは碧風羽さんと向かい合わせて席に座り、お互いにスケッチブックに一心不乱に絵を描いていた。ふたりは言葉は全く発していなかったが、描いている絵でお互いに「会話」をして、コミュニケーションを取っていた。すごいスピードと集中力、真剣な眼差し。当の笠井さんが本当はどう思っていたのかは知らないが、きっとカラオケでぎゃーぎゃー歌っているよりかは、早く絵が描きたくてたまらなかったのかもしれない。あの光景には、全く痺れた。本当に絵が好きな人たちなんだな、と思った。
さて。笠井さんは順当に本誌5号目から『ジゼル・アラン』の連載をはじめる。その緻密で愛らしい絵と、優しいストーリーは人気を博し、多くの読者に歓迎された。もちろんあのアナログ原稿を一人で描いていたのだから、苦労も多かったことだろう。笠井さんは当時、東京から離れた場所に住んでいたのだが、いよいよ原稿が間に合わない、遅れてしまうかとなると、笠井さんのお父さんが車を出して、娘と原稿を乗せて編集部まで直で届けに行ったという。親御さんも応援してくれてるんだね、ほっこりするいい話だね──、と皆で笑った記憶がある。私の方はというと『蝋燭姫』を完結させたあと、望まぬ形でFellows!を出ることとなり、そこで笠井さんとの縁もバッサリ切れてしまった。『ジゼル・アラン』はその後順調に巻数を重ねていくものの、ある時期から新刊が出なくなり、連載もストップしている状態のようだった。すでにFellows!を離れた私には事情を知る由もなかったが、後輩の作家からは、どうも本人の具合が悪いようだという話を伝え聞いていた。
笠井さんと再会したのは、それから13年近くが過ぎた、2023年末のことだった。この年の12月3日に開催されたコミティア146で、私のブースにひょっこりと笠井さんが現れた。びっくりしながらも、懐かしい気持ちになって、これまでのあれやこれやをその場で立ち話した。絵のこと、メンタルのこと、かつてのFellows!のことなど。直接は言われなかったが、どうも私が逮捕された際の顛末(※7)をとよ田みのる(※8)さんから聞いていたらしく、それで心配して来てくれたのかもしれない。笠井さんのお隣にはどこか彼女に似た女性がいて、「妻です」と紹介してくれた。13年の間に私にもいろいろあったが、笠井さんにも私以上にいろいろあったことだろう。最近描いている絵をスマホで見せてくれたが、それは首だけになった聖ヨハネの長い髪を少女のサロメが編み込んでいるという、怖いけれども素敵な絵だった。私が最近描いたのは、おっぱいがめちゃくちゃにでかい女性のイラスト(※9)だったが、それのカードを渡すと、笠井さんは嬉々として受け取って持ち帰ったのだった。
翌2024年、5月26日に開催されたコミティア148に、笠井さんは久しぶりにサークルで参加していた。以前に催した個展の作品を中心としたイラスト集を頒布しており、私は挨拶も兼ねて彼女のスペースまで買いに出かけた。マスクをして顔を隠し、他人のフリをして「すみません、こちら一冊ください」と話しかけ、代金を支払う。しっかりとお金を渡したあとに、自分の持ってきた新刊を「実はこういう者ですが……」と渡して、その正体をばらす。
笠井さん「あっ……! てめえ! 騙しやがったな!!」
私「いやあ…、最初から名乗ってたら、本を(献本として渡してくれるので)ちゃんとお金払って買えないじゃないすか」
茶番である。だが、その茶番に笠井さんがしっかりと乗っかってくれたのが嬉しかった。こんな軽口を叩き合えるのが楽しかった。二人でちょっとだけきゃいきゃい話したあと、「じゃあ、また!」と言ってスペースを離れた。笠井さんの出していたイラスト集『くさむら』は素晴らしい内容で、収録されている作品もさることながら、その額装とも言うべき装丁が見事だった。一枚一枚の絵に合わせて余白に色をつけており、その色彩がまた絶妙だ。このとき自身の個展を控えていた私は、図録『LONG LONG HAIR GIRLS』を編集する際に、この『くさむら』を存分に参考にさせてもらった。
明けて2025年の2月。高円寺のLECURIOでふたたび開催された、笠井さんの個展『私家版鳥類図鑑』を観に出かけた。小さなアンティークショップ内での展示だったが、お店の雰囲気が笠井さんの作風とぴったりで、小鳥のBGMが流れるなかでその美麗な原画をじっくりと堪能できた。笠井さん本人には特に「観に行ったよ」とも何とも伝えなかったが、まあそんなことを言う機会はこれからいくらでもあるだろうと思っていた。
9月13日の夜おそく、室井大資から電話があった。笠井さんの名前が出たときから、悪い予感がした。彼女が亡くなったことを聞いて、強いショックを受け、ふたりとも口数が少なく、参ってしまうとしか言い合えなかった。それから一週間後の9月20日、笠井さんの家までわざわざ線香をあげに行ってきたとよ田みのるさんから電話をいただき、もう少し詳しい話を聞くことができた。残念で悲しいことには変わりはないが、少しだけふふっとなる話もあった。笠井さんは、コミティアで私が渡した「おっぱいのめちゃくちゃにでかい女性のイラスト」のカードを、自身の仕事机の壁に貼っていたという。「ここじゃなきゃダメ!」と言って。
雑誌「Fellows!」が創刊されてから17年が過ぎた。誌名は「ハルタ」に変わり、「青騎士」が分裂し、中心だった森薫・入江亜季はその両誌からも姿を消した。かつてあった創刊時の理想のようなものは、もはや誰も覚えていないだろう。Fellows/仲間として集まった当初の作家陣のほとんどもまた散り散りになり、漫画自体を描かなくなってしまった人もいる。2015年に亡くなった宮田紘次(※10)、2023年に亡くなった佐野菜見(※11)に続き、笠井スイもまた、若くして鬼籍に入ってしまった。さながら前述した映画『ロード・オブ・ザ・リング』の第一章の最後で、せっかく集まった旅の仲間たちが倒れ、別れ別れになってしまうように。
さっき、押入れの段ボールの奥から、創刊された当時の「fellows!」第1号(※12)を引っ張り出してきた。雑誌自体はまだ綺麗なものの、帯は破れてボロボロになっている。載っている漫画をパラパラと眺めてみたが、自分の作品も含めて決してレベルが高いとは言えない。特に今のクオリティが上がった漫画シーンからみたら、未熟で青臭い作品が多いだろう。それでも僕らは、あの時たしかに、同じ仲間として旅をし、同じ船に乗って、同じ行き先を、夢を見ていた。そんな仲間のひとりがいなくなってしまうのは、やっぱり、寂しい。笠井スイさんは、ひと足先に旅を終えてしまったけれども、たどり着いた違う場所で今もきっと、美しく暖かい絵を描き続けていると思う。あの、本当に絵が好きなひとだけがする、真剣な眼差しで。